「海辺のカフカ」  村上春樹

 村上春樹の「海辺のカフカ」を読む。久しぶりに純文学を読んだ。
もっともこれが純文学といえるのかどうか。それはさておき、村上春樹の本は初めて読んだ。村上春樹の評判が高く、海外でも一番よく読まれている日本の作家で、ノーベル賞候補にもなっているらしいので、読んでみることにした。
 15歳の孤独な少年が、このままでは、自分はダメになるという危機感から家出をする。少年は夜行バスで東京から高松に向かう。そしてひょんなことから高松の図書館で暮らすことになる。この話が奇数章で語られる。それに交互して偶数章で、謎めいていてホラーじみていてどこか牧歌的な話が語られる。戦後の田舎町での子供たちの集団失神事件がアメリカ国防省の極秘文書の形で語られる出だしは、非常に惹きつけられた。思わず、偶数章のみ読み進めてしまったくらいだ。21章で、別々に進められていた話が合流しそうになったので、慌てて奇数章に戻った。さて、この話をどう語ったらいいのだろう。悪魔ともいえる人間を父に持ち、母は、その父を恐れ息子を置いて、家出をする。後に残され深く傷ついた少年の再生の物語ということになるのだろうが、話は非現実的なもので語られていく。猫と話ができるナカタさん、幽体離脱?する佐伯さん、中立的客体と自称するカーネル・サンダース、別世界への入り口となる石、猫の頭を集め、最後には白いぬめぬめした物となって魔王になりそこねるジョニー・ウオーカー、父親殺しのエディプスコンプレックスの話も下敷きとしてイメージされ、非常に暗喩に満ちた、なんのこっちゃという話である。
 話には引き込まれるし、文章もうまいと思うし、ユーモアもあり、イメージの世界も鮮やかであると思う。しかし、いただけない。この架空の世界が、何か大切なことを、世界の秘密を語っているとはとても思えない。だからこの小説の意味するところを深く考える気にもならない。架空の話は、もろ刃の剣である。非現実的なものを話に導入すると、ミステリアスになり、読者はぐっと引きつけられるが、それと同時にリアリティを失うのだ。このリアリティを失った状態では、純文学足りえないと思う。そんな作家は今までいない。中世の作家ぐらいである。宮部みゆきについて考えてみるとよくわかる。宮部みゆきは、よく超能力みたいなのを話に導入する。それ以外はリアリズムだ。かなりの腕だ。だから話は面白い。しかし、しょせんエンターテイメントだ。けれども、たまに嘘を排した渾身の作を発表する。「火車」とか「模倣犯」とか。ミステリー仕立てにたよっているが、それも排した純文学までには行っていないが、かなりいいと思う。宮本輝が、私は架空の話を絶対書かない、みたいなことをどこかで書いていた記憶がある。リアリズムで面白い小説を書くのだという気骨が溢れていて、好きである。宮本輝の「幻の光」は、特に好きで、明治大正昭和の純文学全盛の時代の小説群に入れても、決して退けはとらないと思う。ということで、村上春樹にはがっかりした。

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