「ヴィル=ダブレー、水門のそばの釣り人」 「真珠の女」
「モルトフォンテーヌの想い出」
コロー展を見に神戸市立博物館に行った。久しぶりに満足した展覧会であった。コローの絵は、1、2点なら良く見かけたが、まとめて見るのは初めてだ。その古典的なスタイルから17、18世紀の画家と昔は思っていたのだが、印象派と活動時期は重なる。今回は、ルーブル美術館から代表作を持ってきているので、良かった。
まず、イタリア滞在中の初期の作品、あまりいい作品はないが、「ヴィル=ダブレー、牛飼いのいる森の入口」が、良い。コロー的作品といえよう。森へ入っていく道、そこに生えている木々、なんともいえずいい。人のいない全くの自然ではなく、人と自然のつながりの場所、そして形のいい木々、コローがここを描こうと思ったセンスが素晴らしい。
第二章、「フランス各地の田園風景」が、一番良かった。このコーナーの絵を見ながら、見れば見るほど、良くなっていくことに感慨に耽りながら、コローはいいなあ、素晴らしいなあと思った。まず、「ヴィル=ダブレー、水門のそばの釣り人」(写真)、日本で言えば、里山の田畑のそばの池で釣りをしている風景ということになる。そういう味わいがあり、子供のころを思い出させる懐かしさがある。コローの詩情である。「ヴィル=ダブレーの池」、この頃の絵となると、コローの詩情がぐっと深まる。昔はわりと鮮明に描かれていた近景の木の葉が、グレーの淡い色合いで描かれ、ぼかされる。全体に霧が懸かったようになり、詩情がいや増す。「小さな谷」、山を歩いていて、こういう風景に出会ったら感動するだろうなあ。「海辺の村、あるいは村の入口」、近くで見ると、村の茶色の色なすハーモニーに見とれ、海の水色の色なすハーモニーに惹きつけられる。「風景、朝のポーヴェ近郊」、これも良かった。コローの絵は、大自然を描くのではなく、いわば里山の風景を描いた絵といえるだろう。どの絵にも、一人二人の人が点景として描かれている。人がいない自然はどこか寂しいものがある。人を描くことによって、自然とのつながりが生まれる。文人画と似た様な所があると、見ていて思った。人と自然のつながり、これを画家は意識していたと思う。しかし、それを文人画家のように理想郷とは見ていないであろう。従って、精神的な深みというものは、感じない。感じるのは、懐かしさや自然への親しみといったものである。
コローの絵に混じって、他の画家の作品も展示されていた。アンドレ・ドランのけばけばしい風景画があった。しかし、ドランはドランでいい。画家は、己の信じる道を突き進むしかない。ピサロの「夏のこかげの小道」、夏の勢い良く茂った草木とあふれる光、印象派的美しさあふれる作品である。そして、ゴーギャンの「ノルマンディの風景、沼の片隅」、森の中の農家を描いたような風景画であるが、素晴らしい。屋根の赤や左下の牛の赤が少しどぎつく、視る者をはっとさせて目覚ませてやろうという、ゴーギャンらしさが感じられる。ゴーギャンは、タヒチの絵や文学的要素の強い絵が有名であるが、単なる風景画にも素晴らしいものがある。画家としての力量の表れであろう。
コローの人物画もシックな味わいがある。代表作、「真珠の女」(写真)、この絵は、画家が決して手離そうとしなかった作品だそうだ。ダ・ヴィンチのモナ・リザと同じ様に。モデルに思い入れがあるのかもしれない。最晩年の《青い服の婦人》も、美しいが、ちょっと、コロー的ではない。
最後のコーナーで、「アルルーの風景、道沿いの小川」もいい。そして《モルトフォンテーヌの想い出》(写真)、コローの代表作であろう。池辺の大きな木と、そのそばの小さな木に女の子達が、花の飾り付けをしている。少女の赤いスカートが絵にアクセントを付けている。美しい追憶を奏でる作品である。