”江戸の知られざる姿を、多彩な演出で描く3回シリーズ。
「第3集 不屈の復興!! 町人が闘った“大火の都”」を見た。
これまでの2回も面白かったが、今回も面白かった。
去年、東京駅近くの工事現場から、江戸時代265年の地層が初めて一度に出土した。そこには、大火の跡「火災層」が10層も残されていた。江戸は3年に一度の割合で大火に襲われる、“世界最悪の火災の町”だったことが判明したのだ。
江戸の最初の大火は、明暦の大火(1657年)。
現在の山手線の内側1/4の面積、江戸の町の7割が焼け落ちた。犠牲者6万人以上の世界においても空前絶後の大火災だった。
本郷の本妙寺から出火、密集していた家々を焼き尽くした。
路地に張り巡らされた下水道の溝、その上には木の板が敷かれていた。それが導火線となり、わずか20秒で家から家へ火が燃え移った。
堀で囲まれた江戸城も焼き尽くしたというから凄い広がり方だ。
しかし、そこから復興し、以前より栄えたというから凄い、
1650年頃の江戸の人口は40~50万人、それが50年後には100万に増えたのだ。
まず、江戸幕府の役人が復興案を立てた。
武家屋敷を赤坂・市川・小石川に、寺社を芝・浅草に、町人地は本所・深川に、それぞれ一部を移したのだ。
これが、江戸の町を拡大させた。
そして、江戸幕府は、莫大な復興資金を賄うために、江戸城の天守閣の再建をあきらめた。以後再建されることはなかった。
当時の武士たちの見識・徳の高さが伺える。
防災対策としては、住民を移住させた跡地の一部に火除け地という空地を17か所設けた。 この火除け地は、火事の広がるスピードを遅らせるための物。 防ぐまでにには至らない。 人々が逃げる時間を稼ぐための物だった。 その場所は、当時の技術で最適な場所に設けられた。
その後、1万人を超える犠牲者が出ることはなかった。
この頻繁に起こる火事がまた江戸の文化を生んだ。
町火消し。 そのやり方は、破壊消防。 火事周囲の建物を破壊することで、火事が広がるのを防いだ。
町民は家を壊されるのに同意したという。
火事に備え、家はすぐに壊せる単純な構造。 部屋には大きな家具はなかった。
火事を前提に家が作られていた。 だから、家を壊されるのに同意できたのだ。
そして、頻繁に火事に焼かれている内に新たな価値観が生まれた。
お金や物に執着しない身軽な生き方、粋でいなせな江戸っ子の誕生。
宵越しの銭は持たねえ、火事と喧嘩は江戸の華と言う言葉は、こうやって生まれたのだ。
町人たちは、町火消しという日本初の消防組織を作り出し、火事の後の素早い復興事業も担っていた。
町から離れた所に木場という所に大量の木材を貯蔵していた。 また被災者の食料として、米50万石を貯蔵していた。 そして、1日もあれば、水路を使って、江戸中に木材や食料を輸送できたという。
町民は、安い木材を使い、非常食をただで貰うことが出来たという、そして、3日もあれば、生活や商売を再開できたそうだ。
これは、信じられない話だよ。 3日もあれば、生活や商売を再開できたなんて。
関東大震災や東京大空襲で焼け野原になった後、奇跡の大復興を成し遂げたのは、江戸の町にこういう歴史的な素地があったから。
こうやって、今の日本人の災害に対する意識や対処が育っていったんだねえ。
勉強になった。