「夕凪の街・桜の国」  こうの史代

 素晴しいマンガである。原爆被爆の後遺症に苦しむ人々の物語である。しかし、重苦しい話ではない。テーマ自体は重苦しいのだが、それを感じさせない。ユーモアとやさしさがあるからだろう。


 戦後の広島で小さな会社で働く若い女性の物語である。彼女の母親とのあばら家での生活と会社での生活が一筆でさらっと描かれる。情感豊に。そして、恋が芽生える。しかし、被爆直後の広島の悲惨な記憶が、生き残った罪悪感が、恋を許されぬものと感じさせる。それをやっと乗り越えたのに、幸せの予感の内に発病し、そのまま帰らぬ人となる。この話が、たった30ページで語られるのだ。最後に、主人公の想いと、周りの人々の想いが、夕凪の後のささやかな風に託されて描かれる。日本人は、風景に想いを託す。なんと美しい文化であろう。想いは、風景と共に広がり、心に染み入っていく。
 桜の国(一)は、亡くなった女性の弟の娘の物語である。舞台は、戦争も遠くなった東京である。お転婆な女の子の日常がユーモアとともに描かれる。出来事は、すべて(二)につながっていく。
 桜の国(二)は、女の子の成人後の話しである。父親が密かに広島に向かうのをつけて行く。父親は、亡くなった姉の五十回忌に、姉の昔話を聞かせて貰って回っているのだ。父親がただの草原になった川辺りで、思い出にひたっている。ここで、大きく場面転換する。その川辺りがバラックがならぶ当時に戻り、学生に戻って、腰掛けている。この見開きの2ページは、本当に素晴らしい。心がぱーっと広がった。そして、杉浦日向子の「合葬」の一場面を思い出した。主人公が、会津の手前で草原に倒れ、見上げる空とそこに浮かぶ光にふちどられた雲が、見開きの2ページいっぱいに描かれる。これに次ぐ絵ではないかなあと思った。それはさておき、この絵に続き、学生の頃の父親と小さな女の子の出会いが描かれる。この娘も被爆者だが、結婚することになるのである。また、母親の死、おばあさんの死、凪生と東子の恋も描かれる。あらすじはこのくらいにしておこう。これらの出来事がたった100ページ足らずで描かれるのである。驚くべきことである。こんなに中身の詰まったマンガは見たことがない。2回以上読まないと、中身を十分に感じ取れないと思う。
 これは、反戦マンガ、反核マンガであろう。しかし、そういうレッテルをはってもつまらない。反戦、反核なんて当たり前で、言葉で言われても、当たり前のこと言うなという感じである。人は、心を動かされないと、納得しないものである。その意味で、このマンガは力を持つであろう。日本人が読むべきマンガであろう。しかし、私がなんといっても強調したいのは、このマンガが、日本人のもつやさしさを、本当によく表していることだ。このマンガを読むと、やさしい心持になれる。七波と東子が凪生を見舞うところ、京ちゃんが旭にうちに来ないかと言われて、母親に気遣って、「うち ようわからん おやすみなさい」と言うところ、等々いたるところに人を思いやる場面がある。それは、日本人らしいやさしさだなあと思う。誇りに思っていいことだと思う。皆実が死の床で、「嬉しい?十年経ったけど、原爆を落とした人は私を見て、やった!また一人殺せたとちゃんと思うてくれる」と思う場面がある。せめて自分の死が意味のあるものであってほしい・・・。しかし、なんと自虐的な表現であろう。日本人のやさしさを突き詰めれば、ここにたどりつくような気がする。踏みつけにされねば良いのだが。日本のマンガが世界を席捲しつつある。外人が絶対受け入れそうもない日本人の自虐的なやさしさが、マンガにのって、世界に広まるであろうか?
 このマンガは、手塚治虫文化賞新生賞を受賞した。なぜ大賞にならなかったのか?選考委員はどうかしているんじゃないかと思う。作品数が少ないので、新人扱いしたみたいだが、そんなのは、関係ない。このマンガは、群を抜いているのだ。こうの史代は、今後、二度とこんなすごい作品は書けない。こうの史代が、このテーマと出会い、全力でぶつかった末に生まれた一世一代の作品であって、テクニックの問題ではないのだ。手塚治虫文化賞は、朝日新聞に大々的に載る。いい作品は、大々的に宣伝すべきである。こういう商業的でない作品は、賞をきちんと与えなければ、知られないで終わる可能性があるのだ。事実、私は、手塚治虫文化賞は注目しているが、新生賞だったので、この作品に気付かなかった。Plutoなんてどうかしている。過去の受賞作品からいって、大賞に選ばれて当然だと思うのだが。

スポンサーリンク
スポンサーリンク
「関連コンテンツとスポンサーリンク」

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする